東日本大震災から13年ー次の時代へ、そして全国へ伝え続けること

本日3月11日で、

東日本大震災からちょうど13年の月日が経ったことになります。

毎年と同じように今日は、
私の地元六郷地区の東六郷コミュニティ広場にある、
東日本大震災慰霊碑の前で、地元の皆さんと14時46分を迎えました。

若林区沿岸部であるこの六郷地区では、
沖野地区の5名を含め126名の方が津波により亡くなられました。

このコミュニティ広場は、三年前の春、
被災した旧東六郷小学校跡地に新たにつくられたものです。

今日は、荒浜地区の観音様、井土地区の慰霊碑にも足を運び手を合わせ、
この東六郷地区の後には、毎年と同じように、
仙台市役所前の市民広場で開催された「キャンドルナイト2024」に伺いました。

このイベントで、美しい声で合唱をしている小学生も、
もう震災のことは直接知らない世代になっており、
13年という月日が過ぎ去ったのだということを感じさせられます。

しかし私としては、いまでもテレビや新聞等で、
あのときの映像が目に入ると、
心が落ち着かなくなり、いろいろ思い出しますし、

旅立ってしまった同級生、
あの友人やこの友人、お世話になった方々などを思い出します。

思い起こすと、平成23年は、あの震災があり、
県政で復興を実現したいという思いから私は県議選に出馬、
そして「落選した」年でした。

そういう意味では、
私にとっては政治を志す大きなきっかけになった年から、
13年の月日が経ったともいえます。

今後少子化が進み人口減少社会のなかで、
どのように地域を復興から次のステージへ発展させていくか、
非常に難しいところです。

被災地の課題はコロナ禍を経てさらに山積しているところですが、
この13年、震災からの復興のために、
全国、全世界から多くの方々にご協力をいただき、
また国からの支援があったことでここまで何とか来ることができた、

このことにあらためて感謝申し上げながら、
東北から元気を発信し、
お返しをしていかなければならないと思っています。

今年の1月1日に起きた、能登半島地震、
そしてその後、北陸で復興に尽力されている多くの皆さんには、
心からお見舞い申し上げますとともに、

東日本大震災で私たちが経験したことを共有し、
私たちの時より少しでも早く復興が進むよう、
できる限りの協力をしていかなければならないと思いますし、
宮城県庁としても様々な支援をこれからも進めていかなければと思います。

そして特に防災政策、復興政策などは、
今後も相次いで災害が起きることが予想されるわが国においては、

能登半島だけではなく、残念ながら今後あらゆる地域で起こるという前提で、
いざというそのときに活用できるようにしていかなければなりません。

これからは、東日本大震災からの復興を完遂することに加えて、
今後各地で頻発する災害対策に、震災における知見を活かすこと、
そして同時に震災で経験した被災の知見を被災地から発信し伝え続けること、

「支える側に回り、伝え続ける活動」

が、被災地の私たちに課された使命であると感じています。

そして若い世代、震災を知らない世代がこれからさらに増えていきますので、
風化しないための活動、次の時代に伝え続ける活動も、
今後重要になってくると思います。

もちろん、風化する、忘れてしまうことも、
私たちにとって心の安定という点では必要なことであるとも言えますが、
忘れてはならないこと、伝えなければならないことがあるのだろうと思うのです。

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あのとき。

私は、震災直後の信号機が壊れた仙台港近くを通ることがありましたが、
車の誘導をしているパトカーは、

「沖縄県警察」でした。

岩沼市で見かけた給水車は、香川県の

「丸亀市」

の支援によるものでした。

地元の沖野中学校の避難所には、
震災後すぐに「京都市」から支援をいただきました。

沖縄のパトカーを仙台で見ることなどもうないでしょうし、
香川の給水車からこの宮城県で水をいただけるシーンを見ることも、
もうないことでしょう。

震災からわずか数日で、
全国からこのような応援をたくさんいただいたことに、
とても驚きましたし、

その後も全国、全世界から応援をいただいたことは、
本当にありがたく、力強い心の支えだったと思い起こされます。

避難所で新学期に文房具がないということを知り、
このメルマガなどで発信し、
全国、全世界からほんとうにたくさんの文房具を万単位で
読者の皆さんから送っていただきました。

ありがたい気持ちが、
私たちの心にいまでも深く刻まれています。

みなさん、ありがとうございました。

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そして思い起こすと、
私自身もあの日、
そしてあの日からいろいろなことが一変しました。

平成22年、23年は私の人生のどん底で、
大転換期であったかなと今になってみると感じます。

あのころは別れが多く、
涙を流すことも多く、

悲しい思いもたくさんしましたし、
つらい思いもたくさんしました。

しかしどんな窮地に陥っても、

「いまここにこうやって生きている、
 命があることだけでありがたいことだな」

と必ず思えたことで、
この厳しい時を乗り越えることができたように思います。

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これからは、
私たちが多くの方に、少しでもいいので、
全国の方々の力になれるよう努力をしていかなければなりません。

私たち東北の人間が、
日本のために、世界のためにどこかで役立てるよう、

そして役立つことで私たち自身が
幸せを感じられるように
なっていかなければならないと思っています。

この13年間、
いつ死んでもいいという思いで、
あらゆることに取り組んできましたが、

ここからさらに、宮城県政の最前線で、
全力を尽くしていきたいと思います。

新しい宮城をつくる、
新しい日本をつくることを意識して、
この経験を必ず生かす政治を実現していきたいと思います。

東日本大震災から13年。

●全国の避難者等の数は、29,328人(令和6年3月1日現在復興庁調べ)
⇒ https://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-6/20240301_hinan.pdf

●全国の震災の死者数は、15,900人(令和6年3月8日警察庁発表)

●全国の震災による行方不明者は、2,520人(令和6年3月8日警察庁発表)

です。

震災から13年たった現在も、この数字を見ると、
まだ復興が終わったとは言えない現状ですし、

悲しみやつらさをたくさん抱えた13年でしたが、
それでもやはり、

「破壊されるものがあれば、
 そこには必ず創造されるものがある。」

そう信じながら同時に、

宮城県の政治家として
地域のみなさんの先頭に立って、

「つくる」

活動を継続していきたいと思います。

みんなで、がんばりましょう。

「東日本大震災から12年ー次の時代へ伝え続けること」(R5.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-3045.html

「東日本大震災から11年ー伝え続けること」(R4.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2953.html

「東日本大震災から10年、そして次の10年」(R3.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2834.html

「震災から九年─支えることと伝えること」(R2.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2729.html

「震災から八年─政治を志して八年」(H31.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2728.html

「震災から七年─震災後に生まれた小学一年生がまもなく入学」(H30.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2459.html

「震災から六年─小学一年生は卒業式」(H29.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2298.html

「震災から五年─「復興・創生期間」ここからが勝負!」(H28.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2121.html

「東日本大震災から四年─破壊から創造を」(H27.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-1726.html

「つくるの原点─震災から三年になりました」(H26.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-1354.html

「東日本大震災から二年─平了のハチマキというバンド」(H25.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-981.html

「東日本大震災から一年がたちました」(H24.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-607.html

(第4927号 令和6年3月11日(月)発行)