東日本大震災から10年、そして次の10年

本日3月11日で、

東日本大震災からちょうど十年の月日が経ったことになります。

毎年同じように今日は、
私の地元六郷地区の東日本大震災慰霊祭に参列しました。

若林区沿岸部であるこの六郷地区では、
百人以上の方が津波により犠牲となられました。

被災した旧東六郷小学校跡地は、
この春にコミュニティ広場として生まれ変わることになっています。

十年という月日は長かったような短かったような、
不思議な感覚ですが、

いまでもテレビや新聞等であのときの映像が目に入ると、
涙が出てきてしまいますし、

旅立ってしまった同級生、
あの友人やこの友人などを思い出します。

特に今年は、「震災十年」ということで、
ドラマなども含め報道が多かったように感じます。

それぞれ思いがあり、大事な報道もあるとは思うのですが、
ちょっと精神的にきついものも多く、
涙が自然とあふれたり、当時のいろいろなことを思い出し、
具合が悪くなったりして、時々テレビを消していました。

思い起こすと、平成23年は、
あの震災があり、
県政で復興を実現したいという思いから私は県議選に出馬、
そして「落選した」年でした。

そういう意味では、
私にとっては東日本大震災で被災したというだけではなく、
政治を志す大きなきっかけになった年から十年の月日が経ったともいえます。

震災から十年が経過し、
ハード面の整備は進んできていますが、
まだまだ復興が完遂したとは言い切れません。

特に最近はソフト面での復興に、
どう取り組んでいくかということが課題となってきています。

今年度末で国の復興長期計画十年は終了となりますので、
ここからが宮城県にとって、
東北にとって本当の勝負になります。

コロナ禍においては、
大変難しいかじ取りになるわけですが、
コロナ禍において復興を完遂させる、

そして今後少子化が進み人口減少社会のなかで、
どのように地域を発展させていくか、非常に難しいところです。

被災地の課題はコロナ禍でさらに山積しているところですが、
この十年、震災からの復興のために、
全国、全世界から多くの方々にご協力をいただき、
国からの支援があったことでここまで何とか来ることができた、

このことにあらためて感謝申し上げながら、
東北から元気を発信し、
お返しをしていかなければならないと思っています。

特に防災政策、復興政策などは、
今後も相次いで災害が起きることが予想されるわが国においては、
横展開が重要であると思いますし、
いざというそのときに活用できなければなりません。

これからは、東日本大震災からの復興を完遂することに加えて、
今後各地で頻発する災害対策に震災における知見を活かすこと、
そして同時に震災で経験した被災の知見を
被災地から発信し伝え続けること、

「支える側に回り、伝え続ける活動」

が、被災地の私たちに課された使命であると感じています。

全国、全世界に、これから少しずつ
恩返しをしていかなければなりません。

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あのとき。

震災直後の信号機が壊れた仙台港近くを通ったとき、
車の誘導をしているパトカーは、

「沖縄県警察」でした。

岩沼市で見かけた給水車は、香川県の

「丸亀市」

の支援によるものでした。

地元の沖野中学校の避難所には、
震災後すぐに「京都市」から支援をいただきました。

沖縄のパトカーを仙台で見ることなどもうないでしょうし、
香川の給水車からこの宮城県で水をいただけるシーンを見ることも、
もうないことでしょう。

震災からわずか数日で、
全国からこのような応援をたくさんいただいたことに、
とても驚きましたし、

その後も全国、全世界から応援をいただいたことは、
本当にありがたく、力強い心の支えだったと思い起こされます。

避難所で新学期に文房具がないということを知り、
このメルマガなどで発信し、
全国、全世界からほんとうにたくさんの文房具を万単位で
読者の皆さんから送っていただきました。

ありがたい気持ちが、
私たちの心にいまでも深く刻まれています。

みなさん、ありがとうございました。

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そして思い起こすと、
私自身もあの日、
そしてあの日からいろいろなことが一変しました。

平成22年、23年は私の人生のどん底で、
大転換期であったかなと今になってみると感じます。

あのころは別れが多く、
涙を流すことも多く、
悲しい思いもたくさんしましたし、
つらい思いもたくさんしました。

しかしどんな窮地に陥っても、

「いまここにこうやって生きている、
 命があることだけでありがたいことだな」

と必ず思えたことで、
この厳しい時を乗り越えることができたように思います。

いま思うと、震災がなかったら、
宮城県のために力を尽くそうと、
いまほど思っていなかったかもしれません。

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これからは、
私たちが多くの方に、少しでもいいので、
全国の方々の力になれるよう努力をしていかなければなりません。

まだまだ復興は道半ばではありますが、
私たち東北の人間が、
日本のために、世界のためにどこかで役立てるよう、

そして役立つことで私たち自身が
幸せを感じられるように
なっていかなければならないと思っています。

この十年間、
いつ死んでもいいという思いで、
あらゆることに取り組んできましたが、

ここからさらに、宮城県政の最前線で、
全力を尽くしていきたいと思います。

そして次の十年は、新しい宮城をつくる、
新しい日本をつくるための十年間と捉え、
この経験を必ず生かす政治を実現していきます。

東日本大震災から十年。

●全国の避難者等の数は、約4万1千人(令和3年2月26日現在復興庁調べ)
⇒ https://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-1/20210226_kouhou1.pdf

●全国の震災の死者数は、15,899人(令和3年3月10日警察庁緊急災害警備本部発表)

●全国の震災による行方不明者は、2,526人(令和3年3月10日警察庁緊急災害警備本部発表)
⇒ https://www.npa.go.jp/news/other/earthquake2011/pdf/higaijokyo.pdf

です。

震災から十年たった現在も、
まだ復興が終わったとは言えない現状ですし、

悲しみやつらさをたくさん抱えた十年でしたが、
それでもやはり、

「破壊されるものがあれば、
 そこには必ず創造されるものがある。」

そう信じながら同時に、

宮城県の政治家として
地域のみなさんの先頭に立って、

「つくる」

活動を続けていきます。

ともに、がんばりましょう。

「震災から九年─支えることと伝えること」(R2.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2729.html

「震災から八年─政治を志して八年」(H31.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2728.html

「震災から七年─震災後に生まれた小学一年生がまもなく入学」(H30.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2459.html

「震災から六年─小学一年生は卒業式」(H29.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2298.html

「震災から五年─「復興・創生期間」ここからが勝負!」(H28.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2121.html

「東日本大震災から四年─破壊から創造を」(H27.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-1726.html

「つくるの原点─震災から三年になりました」(H26.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-1354.html

「東日本大震災から二年─平了のハチマキというバンド」(H25.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-981.html

「東日本大震災から一年がたちました」(H24.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-607.html

(第3831号 令和3年3月11日(木)発行)