臣下に一点の私心もなければ王を追放してかまわない

朱子の註に、

「三仁、すなわち箕子・微子・比干は貴戚でありながら
 紂王に対してこれを行うことができませんでしたが、
 漢の霍光は異なる姓でありながら、
 これを昌邑王に対して行いました。
 しかしこれは、貴戚・異姓の問題でなく、
 両者の委任された職責と、それにともなう権力とに大小の差があった結果であって、
 一つの立場のみに立って論ずべきことではありません」

とあります。

この説は非常によい。

殷の伊尹が異姓の大臣でありながら王の太甲を追放し、
劉向が漢の一族でありながら権臣の横暴さえ抑えることができなかったのも、
みな、委任と権力とがちがっていたからであります。

また宋の孝宗が崩じた時、
その子の光宗は病のために喪に服することができず、

結局、宋の同族の臣である趙汝愚が光宗の子である
嘉王を立てて天子の位に即けたのですが、

これは、天子の一族の臣であって、
同族内の問題を処理したものであります。

以上から考えて、
貴戚であるか異姓であるかの区別なく、

大臣たるものは国家を憂うること、
右のごとくでなければなりません。

そして、君をかえることと位を去ることとは、
みな権に属することであって、
大臣たるものの常経からいえば、
君の非を諫めて容れられぬ時は、
死して諫める道があるのみであります。

しかしながら、易と去と死、
別の君を立てると、その位を去ると、死して諫めるとの
三様の臣があるならば、
その国がいかに衰えたとしても、なお恃みとするところがあります。

しかるに遺憾に堪えぬことは、
世の暗君庸主が、このような臣こそ恃みとすべきであることがわからずに、
これを忌み避けることばかり知っていることであります。

明主の態度はこれと違い、
このような臣を育てて後世にのこし、
永く国家守護の柱とするのです。

「孟子の本章の論に対して、
 これは君の位を奪い、あるいはこれを弑することの端緒を開く恐れがあって、
 聖人賢者のことばでない、削り去るがよろしい、
 という先輩がありますが、どうでありますか。
 また君がどのような場合に、臣下がどのようでありますなら、
 別の君を立ててもよいのでありますか。」

と、わたくしにたずねるものがありました。

以下は、それに対する、
わたくしの考えです。

孟子のことばのうちに、

「伊尹の志あれば可なり」

とあります。

この一語のうちにすべてが尽くされています。

伊尹の志は、国家を憂え民衆を憂うるのみであって、
一点の私心もありませんでした。

この志に誤りなきことをみずから確信し、
天地宗廟に対し少しも懼れるところがなく、
天下後世に対し少しも愧じるところがなく、

また天地宗廟も天下後世も、
すべてが伊尹に私心がないことを信じて、
その志を非難するものがありませんでした。

これが伊尹の志であったのでした。

霍光や趙汝愚においても、
彼らが君を廃立しようとする際に当って、
一点の私心もありませんでした。

そうであるからその行動も、
みずから信ずることをなし、
人もそれを信じたものであって、
これもまた伊尹の志に外なりませんでした。

これに反して、曹操や司馬懿は、
智謀と術策とをふるって当時の世を思いどおりにあやつったとはいえ、
天下後世、彼の心を信ずるものはないのであります。

そうであるから彼らを奸雄と呼んで、
永く乱臣賊子の見本としているのです。

まことに謹むべきことであります。

しかしながら、曹操・司馬懿のごとき臣下があるということは、
君主自身の罪であり、君主にとって最大の恥であります。

まして、君にその非を言上する際の態度は、
君に戒懼の心を起さしめることを肝要とします。

そうであるから、この章を削り去ることを必要としないのです。

ということを約150年前の日本において、
政治犯として牢屋の中にありながら、

囚人と看守に対して
熱心に教えた人がいたのでした。

その政治犯は間もなく
斬首刑になってしまいます。

そして時は立ち、
その政治犯の弟子たちが、

明治維新の原動力となり

日本を変えていったのでした。

⇒ この本をときどき繰り返し読んでいます。