昔の人を友とせよ

この章は、ひろく「友道」、
友人の道について論じたものですが、

その結論は「尚友」、
古人を友とするということにあります。

本文にいう「一郷の善士は」云云、
一村における優れた人物は、その村内の優れた人物を友とし、
一国における優れた人物は、その国内の優れた人物を友とし、
天下における優れた人物は、天下の優れた人物を友とします

とは、
その人物の才能・徳望の高下によって、
交わるところの友人の範囲にも広狭の差があることの
大体を特にいっただけであって、

村における優れた人物は絶対に国における優れた人物を友とするな、
国における優れた人物は絶対に天下における優れた人物を友とするな、

というのではありません。

そもそも「その詩を頌し、その書を読みて、その世を論ず」、

天下の優れた人物を友としてなお足らず、
遡って、古人の詩を唄い、古人の書を読み、
さらに古人の活躍した時代までも論究することこそ、
孟子の学則なのです。

孟子のいう「詩」とは、
『詩経』以下歴代の歌詞のことであります。

「書」とは、
『書経』以下歴代の論議・弁説のことであって、
かの「右史はことばっを記録する」というものがこれに当たり、

『国語』『戦国策』『説苑』等の書物がこれに属します。

「世を論ずる」とは、当時の記録を読んで、
古人の行跡を考究することであって、

かの「左史は行いを記録する」というものがこれに当たり、
『左伝』等の書物がこれに属します。

『史記』『漢書』以下のいわゆる史書は、
左史の職責である行いの記録と、
右史の職責であることばの記録とがまざって
一つになったものであるといわれています。

古書は以上の三体、すなわち
「ことばを記したもの」
「行いを記したもの」
「その両方を合せて一つになっているもの」
の三者に分類することができます。

以上のうちにおいて、
まず読むべきものは「詩」「書」であり、
それによって、古人の目標や議論の大体がわかるのであります。

しかしながら、人の目標とか議論というものは、
それが生まれた時代と土地について考察しなければ
真の意味は理解しがたいもので、
すべてを一様に見るべきではありません。

それ故に、その世を論ずるのです。

『孟子』のうちに
「禹・稷・顔淵、及び曾子・子思は、立場をかえたならばみな同じことをしたであろう」

といい、

「前代の聖人も後代の聖人も、その考えるところは同一である」

といっている類のことばによって、
これを知ることができます。

さらに、
ことばが優れていて、
行いがそれに及ばないものもありますし、

行いが優れていて、
ことばがそれに及ばないものもありますから、

かれこれ対照比較することによって、
大いに益を得ることです。

以上によって、
だいたい、孟子の学則を知ることができるのです。

「詩」を唄い「書」を読むことは、
かりにいうならば、今の経学がこれに当たり、

「世を論ずる」ことは、
かりにいうならば、今の史学がこれに当たります。

それ故に、孟子の学問は、経学と史学を兼ねたものであります。

ということを約150年前の日本において、
政治犯として牢屋の中にありながら、

囚人と看守に対して
熱心に教えた人がいたのでした。

その政治犯は間もなく
斬首刑になってしまいます。

そして時は立ち、
その政治犯の弟子たちが、

明治維新の原動力となり

日本を変えていったのでした。

この本をときどき繰り返し読んでいます。