東日本大震災から11年ー伝え続けること

本日3月11日で、

東日本大震災からちょうど11年の月日が経ったことになります。

毎年同じように今日は、
私の地元六郷地区の東六郷コミュニティ広場にある、
東日本大震災慰霊碑の前で、地元の皆さんと14時46分を迎えました。

若林区沿岸部であるこの六郷地区では、
沖野地区の5名を含め126名の方が津波により亡くなられました。

このコミュニティ広場は、昨春、
被災した旧東六郷小学校跡地に新たにつくられたものです。

ここでは被災し全滅した井土メダカの再生事業も実施されています。

11年という月日は長かったような短かったような、
不思議な感覚ですが、

いまでもテレビや新聞等であのときの映像が目に入ると、
心が落ち着かなくなり、いろいろ思い出しますし、

旅立ってしまった同級生、
あの友人やこの友人などを思い出します。

新型コロナウイルス感染症の拡大により、
ここ数年はまた異なる状況になってきてはいますが、

やはり震災当時の厳しい状況、
そしてその後懸命にいろいろなことに取り組んだことを
あらためて思い出すきっかけとなるところです。

思い起こすと、平成23年は、
あの震災があり、
県政で復興を実現したいという思いから私は県議選に出馬、
そして「落選した」年でした。

そういう意味では、
私にとっては東日本大震災で被災したというだけではなく、
政治を志す大きなきっかけになった年から11年の月日が経ったともいえます。

震災から十年以上が経過し、
ハード面の整備は進んできましたが、
まだまだ復興が完遂したとは言い切れません。

特に最近はソフト面での復興に、
どう取り組んでいくかということが課題となってきています。

コロナをどう乗り越えていくかということも含めて、
ここからが宮城県にとって、東北にとって本当の勝負になります。

コロナ禍においては、
大変難しいかじ取りになるわけですが、
コロナ禍において復興を完遂させる、

そして今後少子化が進み人口減少社会のなかで、
どのように地域を発展させていくか、非常に難しいところです。

被災地の課題はコロナ禍でさらに山積しているところですが、
この11年、震災からの復興のために、
全国、全世界から多くの方々にご協力をいただき、
国からの支援があったことでここまで何とか来ることができた、

このことにあらためて感謝申し上げながら、
東北から元気を発信し、
お返しをしていかなければならないと思っています。

特に防災政策、復興政策などは、
今後も相次いで災害が起きることが予想されるわが国においては、
横展開が重要であると思いますし、
いざというそのときに活用できなければなりません。

これからは、東日本大震災からの復興を完遂することに加えて、
今後各地で頻発する災害対策に震災における知見を活かすこと、
そして同時に震災で経験した被災の知見を
被災地から発信し伝え続けること、

「支える側に回り、伝え続ける活動」

が、被災地の私たちに課された使命であると感じていますし、

若い世代、震災を知らない世代がこれから増えていきますので、
風化しないための活動も今後重要となってくると思います。

もちろん、風化する、忘れてしまうことも、
私たちにとって心の安定という点では必要なことであるとも言えますが、
忘れてはならないこと、伝えなければならないことがあるのだろうと思うのです。

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あのとき。

震災直後の信号機が壊れた仙台港近くを通ったとき、
車の誘導をしているパトカーは、

「沖縄県警察」でした。

岩沼市で見かけた給水車は、香川県の

「丸亀市」

の支援によるものでした。

地元の沖野中学校の避難所には、
震災後すぐに「京都市」から支援をいただきました。

沖縄のパトカーを仙台で見ることなどもうないでしょうし、
香川の給水車からこの宮城県で水をいただけるシーンを見ることも、
もうないことでしょう。

震災からわずか数日で、
全国からこのような応援をたくさんいただいたことに、
とても驚きましたし、

その後も全国、全世界から応援をいただいたことは、
本当にありがたく、力強い心の支えだったと思い起こされます。

避難所で新学期に文房具がないということを知り、
このメルマガなどで発信し、
全国、全世界からほんとうにたくさんの文房具を万単位で
読者の皆さんから送っていただきました。

ありがたい気持ちが、
私たちの心にいまでも深く刻まれています。

みなさん、ありがとうございました。

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そして思い起こすと、
私自身もあの日、
そしてあの日からいろいろなことが一変しました。

平成22年、23年は私の人生のどん底で、
大転換期であったかなと今になってみると感じます。

あのころは別れが多く、
涙を流すことも多く、
悲しい思いもたくさんしましたし、
つらい思いもたくさんしました。

しかしどんな窮地に陥っても、

「いまここにこうやって生きている、
 命があることだけでありがたいことだな」

と必ず思えたことで、
この厳しい時を乗り越えることができたように思います。

いま平成23年以前の、あの頃を思い出すと、
私自身は、震災がなかったら、
宮城県のために力を尽くそうと、
いまほどは思っていなかったかもしれません。

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これからは、
私たちが多くの方に、少しでもいいので、
全国の方々の力になれるよう努力をしていかなければなりません。

まだまだ復興は道半ばではありますが、
私たち東北の人間が、
日本のために、世界のためにどこかで役立てるよう、

そして役立つことで私たち自身が
幸せを感じられるように
なっていかなければならないと思っています。

この11年間、
いつ死んでもいいという思いで、
あらゆることに取り組んできましたが、

ここからさらに、宮城県政の最前線で、
全力を尽くしていきたいと思います。

そして次の震災から二十年の節目の時までには、
新しい宮城をつくる、
新しい日本をつくることを意識して、
この経験を必ず生かす政治を実現していきたいと思います。

東日本大震災から11年。

●全国の避難者等の数は、約3万8千人(令和4年2月25日現在復興庁調べ)
⇒ https://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-1/20210226_kouhou1.pdf

●全国の震災の死者数は、15,900人(令和4年3月9日警察庁発表)

●全国の震災による行方不明者は、2,523人(令和4年3月9日警察庁発表)

です。

震災から11年たった現在も、
まだ復興が終わったとは言えない現状ですし、

悲しみやつらさをたくさん抱えた十年でしたが、
それでもやはり、

「破壊されるものがあれば、
 そこには必ず創造されるものがある。」

そう信じながら同時に、

宮城県の政治家として
地域のみなさんの先頭に立って、

「つくる」

活動を継続していきたいと思います。

みんなで、がんばりましょう。

「東日本大震災から10年、そして次の10年」(R3.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2834.html

「震災から九年─支えることと伝えること」(R2.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2729.html

「震災から八年─政治を志して八年」(H31.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2728.html

「震災から七年─震災後に生まれた小学一年生がまもなく入学」(H30.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2459.html

「震災から六年─小学一年生は卒業式」(H29.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2298.html

「震災から五年─「復興・創生期間」ここからが勝負!」(H28.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-2121.html

「東日本大震災から四年─破壊から創造を」(H27.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-1726.html

「つくるの原点─震災から三年になりました」(H26.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-1354.html

「東日本大震災から二年─平了のハチマキというバンド」(H25.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-981.html

「東日本大震災から一年がたちました」(H24.3.11)
⇒ http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-607.html

(第4196号 令和4年3月11日(金)発行)