私が20代のころの三陸道要望の思い出
昨日、令和3年3月6日に、
気仙沼港・唐桑半島IC間が開通し、
高速道路、三陸沿岸道路の宮城県内区間が全線開通となりました。
これにより仙台・宮古間が直線でつながったことになります。
仙台から気仙沼まで約2時間で行けることになります。
とてもうれしいことです。
これは東日本大震災以後、復興道路として驚異的なスピードで、
国から予算化、建設が進んだもので、
東日本大震災から十年の節目を前に
三陸道宮城県内全線開通したということは、本当に心からうれしいことです。
昨日はテレビや新聞でこのニュースを見ていて、
本当にうれしく思うとともに、
多くの方の汗と努力があったことを思い出していました。
私は20代から30代にかけて、
国会で秘書として働いていたのですが、
そのときに地元要望で最も力を入れていたのが、
「三陸道の早期開通」
でした。
平成12年から秘書として働き、そのころから、
三陸道の予算化、早期の全線開通を目指して、
地元の市町村と一体になって、市長さんや町長さんと、
様々な思いを共有しながら、
主として国土交通省と財務省を行き来したりしていました。
役場の方と三陸道の要望書の内容を調整したり、
事前に省庁側とも打ち合わせたり、けっこう大変でした。
霞が関回りを地元のリアスハイウェイ女性の会のみなさんと
黄色いスカーフを手に歩き回ったり、真夏の最中や秋に、
市長さんや町長さんと一日一万歩になるくらい、歩いたものです。
地元の熱意が全国でも話題になるほど、
たくさんの人が一生懸命、三陸道の全線開通を要望しました。
まだ石巻までしか三陸道が開通していなかったころでしたが、
当時から防災道路として、
国道45号線と三陸道が両方あることが重要であると、
地元の首長さんたちと訴えていましたが、
なかなか建設は進まず、少しずつ少しずつ道路が北上している感じでした。
震災があったことをいま思うと、
もう少し早かったらとも思うわけですが、
当時の国の全体予算からいえば、何十年スパンのレベルでしたので、
とにかく少しずつでも地道に頑張る、
そんな思いを市長さんや町長さんたちと共有していたことを思い出します。
「渡辺君が俺らぐらいの年にならないと完成しないのか」
首長さんからそんなことをいわれたこともありましたが、
それぐらいのスパンの可能性であり、
何十年かけてでも三陸道を全線開通させようと、
みんなの期待は熱かった、そんな思い出があります。
思いもかけない平成23年の東日本大震災を経験し、
三陸の道路の脆弱性が、
避難・復興を阻害したということは否定できません。
その後の国の予算化は異例とも言うべきスピードで、
10年でここまできた、全線開通したということは、
私が20代のころにはとても想像できませんでしたが、
本当によかったなと思いながら、
震災があったことを思うと、複雑な思いでもあります。
当時、公共事業は悪であるという時代のなか、
汗を流して地域のために頑張っていた地元の方々のおかげであり、
また震災以後、復興に力を入れてきたなかで
国からも大きな推進力をいただいたものと、有難く受け止め、
ここからが本当の勝負であり、
この道路を生かすも殺すも私たち宮城県、地元の力次第であると思います。
道路はあくまで手段であり、
防災に活かす手段でもあり、
観光に活かす手段でもあり、
物流のために水産物を輸送する手段でもあります。
三陸道を生かすために何をするか、
ここからは宮城県民である私たちの力の見せ所であると思うところです。
(第3827号 令和3年3月7日(日)発行)