平成最後の年末に、私の同級生が書いた中公新書『小泉信三』を読む─小川原正道『小泉信三─天皇の師として、自由主義者として』(中公新書)
⇒ 小川原正道『小泉信三─天皇の師として、自由主義者として』(中公新書)
小泉信三は慶應義塾出身者であれば、
一度は名前を聞いたことのある学者の一人であると思います。
福沢諭吉の次に慶應で有名な学者と言ってもいいでしょう。
私も学生時代その著作を読んだものです。
いまでも読んでよかったと思う小泉信三の本はこちらです。
⇒ http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4167130017/cuccakatsu-22/ref=nosim
学生さんはじめ若い人にはこの本はおすすめですね。
小泉信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月4日-1966年(昭和41年)5月11日)は、
日本の経済学者(経済学博士)。Wikipedia
東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(今上天皇)の教育の責任者となる。
1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾塾長(第7代)。
平成も終わりに近づいたこの11月に、
小泉信三をテーマとした新書が出版されました。
小泉信三は、今上天皇陛下の教育責任者であった学者でもあり、
いわば天皇陛下に大きな影響を与えた教育者であったともいえるでしょう。
平成も間もなく終わるこの時期、
この30年という時代を振り返ることはもちろん、
天皇の在り方、君主とは、そして象徴天皇制の意味について
深く考える機会となる伝記だと読み終えて感じました。
この『小泉信三』の著書は、
私が慶應の大学院時代に机を並べた同級生である、
小川原正道君の筆によるものです。
当時から小川原君は優秀で、
たくさんの書物を読み、
たくさんの論文を書いており、
私からすると雲の上のような存在でしたが、
寡黙な小川原君と様々なテーマでよく議論したことを覚えています。
同じ時代の政治史を学びましたが、その後、
私は政治の世界へ、小川原君は学問の世界へと別の道を歩みました。
しかし今回こうして著書を読んでみると、
私自身の今後踏まえるべき道に対するヒントが
多く書かれていたように感じます。
慶應義塾出身者として、
福沢諭吉研究、小泉信三研究を専門とする王道の研究者として、
今後さらに活躍してほしいと思っている、
尊敬すべき同級生です。
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戦前の小泉信三は、自由主義経済学者、
マルクス主義批判の知識人、
慶應義塾長として知られていました。
戦中は好戦的発言を繰り返すなか、
空襲で全身火傷を負ってしまいます。
戦後は皇太子教育の全権委任者として、
敗戦とともに揺らぐ皇室を支え、
美智子妃を迎えるなど象徴天皇制の基盤を作った人物です。
戦前の小泉は、慶應義塾塾長として、
慶應出身者ならだれもが知っている「練習は不可能を可能にす」
という言葉にあるように、
体育会の発展に力を尽くした人物でした。
晩年になっても、小泉はスポーツの重要性を語った。
スポーツには三つの宝があるという。
第一に、練習、または練磨の体験。不可能を可能にするのが練習であるという体験を持つこと。
第二に、フェアプレーの精神。正しく、潔く、礼節をもって勝負を争うこと。
第三に、友。我が信ずる友、我を信じてくれる友、何でも語ることのできる友、何をいっても誤解しない友、これらを持った者は、人生の最も大きい幸福を得た者だという。
(「スポーツが与える三つの宝」『産経新聞』1962年7月2日)
戦前、小泉は日本経済学の発展のためには、
日本民族の血統、風土、歴史的発展を踏まえて、
政治、宗教、道徳、芸術の領域にわたって研究を進めなければならないと説く。(P80)
「我々がこの国難に処すべき法は唯一つ。
全国民心を一にし力を合せて事に当る覚悟を定め、この決意を示すことこれであります。」(P81)
好戦的発言を繰り返していた小泉でしたが、
昭和天皇へ日米戦回避を訴えていたともされ、
現実的視点を持っていたとも言えるでしょう。
しかし一度戦争が始まれば、
戦意を高揚させ、祖国を守ろうとするのが自然な流れとなるもの。
「万一この戦に負けたなら三等国、四等国になる、ならぬのごときは問題ではない。
日本が果たして地球上に国として残るか、否かが問題である」(P96)
戦後、小泉は「リベラリスト」と判断され、
パージを免れます。
戦争に負けたことに小泉は「反省」をしました。
「前古未曽有の愚かな事をした」と。
しかしそこで小泉は、
「すべて軍人が悪かったのだといって赤面もしないところには、
かえって日本の真の禍根があったと考えるべきでないか」
「明治の興隆は西洋の科学と個人尊重の思想の導入に負うものであったと。
それを取り入れたのは士族であった。
彼らは伝統的な面目と廉恥の観念と、儒教によって養われた強い義務心を身につけており、
それは彼らを『道徳的背骨(モラルバックボーン)』のある人間とした。
西洋学問と従来の思想は幸いなる結合を形成し、
彼らは物事に対して心に用意のある人、何物か守るところのある人とした。
彼らが国の大事を誤らなかったのは、このためである。
しかし、この背骨をしっかりさせることが、その後の日本で怠っていたのではないか。
『日本在来の教えはゆるがせにされて、西洋文化もしっかりと本質的には掴むことを怠った。
これが日本人の犯した過ちではなかっただろうか』と問う。」
この「道徳的背骨」という概念は、
のちに今上天皇陛下にお伝えになったものでした。
戦後、全国に100万人にのぼる戦争遺児がいました。小泉は
「敗戦のため、心の張りを失った一部の国民が否定的、自棄的となり、
どうかすると、国民が国のために尽し、
そのために犠牲となることの貴とさを忘れる嫌いがあることは、
遺児の人々の心事を思い、まことに忍びないことです」
と述べ、戦争を嫌い、平和を愛することは自分も同じだが、
国のため、同胞のために身を捨てて尽くした人々のことは国民として忘れてはならない、
と説いた。(P116)
「国の危ういときに、国民の義務として一身の安全や安楽を捨てて出て、
戦死したり、負傷したりした人々の犠牲の行為というものは、
これは国民として有難く思い、済まないと感じずにはいられない、貴とい行為です。」
昭和25年4月24日、小泉は皇太子殿下(今上天皇)への進講を始めます。
このとき殿下は学習院高等科二年。
この時の覚書によれば、小泉は、
これから経済学の進講をはじめるが、すべての進講に先立ち、殿下に、
「今日の日本と日本の皇室の御位置及其責任」
ということをお考え願いたいと述べました。
昭和天皇は大元帥であり、先の大戦の開戦について責任がないとは言い切れない。
だが戦争には敗れたものの民心は皇室を離れなかった、
その理由の大半は「陛下の御君徳による」とした。
小泉は将来の君主である皇太子に対し、
「人格その識見」は自ら国の政治に影響し、
勉強と修養は日本の明日の国運を左右するものと考えるよう話した(『アルバム小泉信三』)。
この「陛下の御君徳」「人格その識見」こそ、
小泉が敗戦後主張した「道徳的背骨(モラルバックボーン)」であろう。
それを身につけるために、「勉強と修養」に努めること。
小泉が掲げたのはこれであった。
小泉は皇太子殿下に、
『ジョオジ五世伝』『帝室論』の読解を進講したのでした。
『ジョオジ五世伝』は原書で読み、小泉は、
王の「誠実と信念」の一貫が英国民に安定感を与えた、
立憲君主は道徳的警告者たる役目を果たすことができ、
そのためには君主が無私聡明、道徳的に信用ある人格として
尊信を受ける人でなければならぬと応えたのでした。
福沢諭吉の『帝室論』は1882年に書かれたものでした。
「小泉は『帝室論』を解説して、皇室は政治の外に仰ぐべきものであり、
そうしてこそはじめて尊厳は永遠のものとなる、
日本で政治について語り、政治に関する者は、皇室の尊厳を乱用してはならない、
それが論旨であるとした。
また皇室の任務については、日本民心融和の中心となることであり、
勧懲賞罰、学問技芸の奨励などを担うべきであるとした。」
小泉信三という人物がどのような人物であったかということを
あらためてこの本において確認するとともに、
今上天皇陛下への御進講を通して、
平成という時代の礎がここにあるようにも感じました。
次の時代をつくるということも大事ですが、
今なすべきは次の次の次の時代をつくることなのではないかと、
同級生の著書を読みながら感じたところでした。
ぜひとも多くの方にこの本を読んでいただきたく、
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